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主任司祭より(7月)

[説教案―(6)時間と永遠]中学生の頃から、夜空の星を眺めるのが好きでした。浜辺で、山の上で、部屋の窓から。♪♪見上げてごらん夜の星を・・☆小さな星を・・☆小さな光を・・♪ささやかな幸せを♪♪。決して哲学少年ではなかったのですが、何万光年も前に光った星の光が今人間の目に入ること、しかも地上では刻一刻と時が流れていくのに、時間を越えた“永遠”があるとは一体どういうことだろうか、子供ごころに不思議で不思議でたまらなかった。多分その頃から、おかしな人間になったのでしょう。というのは、今も星空を見上げていると、愛する両親や若くして亡くなった兄が永遠に生きていると感じるからです。自分は此の世に生きているのに、此の世そのものが一体全体何なのか?誠に不可思議に感じるからです。そして、目に見えない永遠の世界が実在していると、おぼろ気に ―本当にかすかに― 感じることがあるからです。やはり、私はおかしな人間になってしまったようです。しかし少なくとも、過ぎ去っていく此の世の基準だけでは、“永遠”が何であるか理解出来ないと思います。1回限りの人生の神秘も永遠の命も・・。人間は魂の内奥が揺れ動くような愛と感動の中で始めて、“永遠”ということを受け止めることが出来るのではないでしょうか。名作「ローマの休日」という映画の最後の場面で、王女が新聞記者と別れる時の哀愁を帯びた美しい微笑み、神々しい程に輝いていた微笑みは“永遠があるのよ!(地上の時間が全てではないのよ!)”と言っているようです。

人間は天体の運行に合わせて時を計る時計を発明しましたが、時間そのものは何処にも存在していません。強いて言えば、時間とは昨日・今日・明日へと、過去・現在・未来へと移り変わり過ぎ去っていくことを示す一つの様式であると思います。小説「夕映えの人」(加賀乙彦氏著)の中で、4人の子供を育てたが各々独立し夫にも先立たれた今、余生を送っている母親が人生を振り返って、しみじみと息子に語る下りがある。「年を取るにしたがって時間が早く流れるだろう。人間の時間とは川と逆なので、始まりは悠々たる大河のようにゆったりと流れ、段々に狭まって急流になり、最後は滝から真っ逆さまに落ちてちっぽけな飛沫になって消えてしまうのさ。だから、私にとって戦後の時間は・・谷間を走る渓流さながらに素早く過ぎたんだよ」と。私の父も亡くなる前に「地上の人生は、決して仮の世の戯れではなかった。けれども90年は夢のようだった・・」と述懐したことを覚えている。私自身は今年還暦を迎えて赤ちゃんに戻りましたが、小学校時代の友人に会って一緒に遊んだ日々を想い出すと、50年前のことが恰も昨日のように感じられます。過ぎ去った時間は、何故こんなにも早く短いのでしょうか。人類の歴史も、既に100万年(或いは300万年)が過ぎてしまったのです・・。

ところで、人間の死後・神の世界には時間というものがないと思います。もはや何も移り変わり過ぎ去っていかないので、“今という瞬間”だけであると言えるでしょう。永遠とは「地上の時間」がないことであり、禅では、“永遠に今”という表現を用いるようです。時間が永遠に飲み込まれて、私たちが完全に救われる時には、人間として有り難い・勿体ない・忝ないと感じるような、いやいやそれ以上の、しかも想像を絶するような喜悦と至福の嵐の中で、大いなる神の栄光を賛美する瞬間が待っているのだと信じています。その永遠の瞬間は、あくびをする暇も無い程の、娶ったり嫁いだりする必要がない程の“神の愛”に心が全部満たされた“感動の瞬間”ではないでしょうか。その瞬間は、愛する者同志が永遠に一緒にいるという人間の究極の願望が叶えられている瞬間でもあると思います。(最後に)もし神の世界に何らかの“時”があるとすれば、「主のもとでは、一日は千年の如し、千年は一日の如し」(ペトロ後書3章)と人間が感じるような“時”があるのかも知れません。 

桜井神父
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