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主任司祭より(9月)

[説教案―(8)教会について]昨年5月の神戸聖書展、12月の市民クリスマス、今年6月の聖書リレー朗読、そして先月近隣のプロテスタント教会と共催した「平和旬間の集い」等に参加して、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」(エフェソ4章)であるという思いが深くなりました。勿論、教会は一つであると言っても、目に見える組織や教義は分かれたままです。今後も同じキリスト者として分裂の痛みを背負い続けて行くのですが、同時に「あなた方の父は天の父お一人だけ、あなた方の教師はキリスト一人だけである」(マタイ23章)。即ち、あなた方の師は一人だけで、あとは皆兄弟として仕え合う者であるという同じ信仰を頂いています。私達は同じ神の家族として、人々の救いという同じ使命のために共に歩んで行きたいものです。

教会とは神に呼ばれた者の集いであり、各々の使命を与えられた者が同じ信仰をもって生きていく場だと思います。教会とは、神の国の完成を目指して地上を旅する“神の民”であり、全ての人々に救いを伝える“しるし(秘跡)”なのです。しかし、2000年の歴史の中で、教会は右に左に揺れ動き、勝利主義・聖職者主義・社会からの遊離等々の状況を乗り越え、或いは繰り返してきたのではないでしょうか。日本の教会にも反省すべき点が多々あります。欧米の教会に精神的・財政的に依存し、教義や道徳を強調し、司祭・信徒が互いに甘え合うこと等々(垂水教会・中川神父著「妖怪の棲む教会」参照)。しかし今、教会は“救いのしるし”として、本来の使命を果たす時を迎えていると感じています。何故なら、信徒の典礼・司牧・宣教面での役割が主体的になり、幸か不幸か?司祭の減少高齢化という時のしるしがあり、各国の文化の中に福音が根付き始め、病者・高齢者の世話や外国人・小さな人々への関心が拡がり、家族の絆やいのちの尊さが叫ばれ、地域社会との接触や諸宗教との対話も始まっているからです。教会の教えは通常、社会の動きから50年くらい遅れていると言われますが、人間存在を解明しようとする人間学・心理学・生命科学等の発展した諸学問に謙虚に耳を傾けようとしています。人類の連帯性や次の世代への働きかけといった新たな視野も必要になっています。

ところが現実には、教会は此の世の事柄に万能ではなく、むしろ巨大で過酷な競争社会と不条理な人間社会の中に漂う小さな共同体です。多くの教会はひっそり感としていますが、或る宗教団体には老若男女が溢れ、サッカーや野球試合、コンサートや演劇の舞台は超満員です。一体、どうなっているのでしょうか。教会には、現代人を惹き付ける魅力や感動、涙や笑いがないということでしょうか。「ピンポン、正解!」と言いたいところです。実際、最近のドラマや映画の中には、人生や人間性をテーマとし“福音”を感動的に表現しているものが数多く見られます。しかし、教会の魅力も捨てたものではありません。何時の時代のどんな人にも迫っていく深さを持っていると思います。それは、“神の子キリストが、―愚かなまでに人間を愛しながら―この不条理な世界を生き死にされた”という福音に立脚しているからです。この福音は、次のようにも言えるでしょう。(1)この地上には全ての人に死が存在し、どんな哲学も納得のいく答えを持たず、謎のままです。しかし、イエスは答えられた。「死は最後ではない。人間は死に向かって造られたのではなく、生に向かって永遠の生に向かって造られたのである」と。(2)人生には孤独があり、誰の内部にも他人の好意や愛情では満たしきれない最後の孤独がある。しかし、イエスは答えられた。「私達は決して一人ぼっちではなく、神がいつもすぐそばにおられる」と。(3)この世界には絶えざる争いと憎しみが存在し、終結は不可能に見える。しかし、イエスは答えられた。「解決する只一つの方法がある。自分の正しさを要求せず、馬鹿になって人を愛することである」と。(4)・・(5)・・(ここには、皆様ご自身の信仰表現を加えて下さい)

桜井神父
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