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主任司祭より(12月)

[年の暮れ・師走を迎えて]辞書によると、師走とは農事が終わる陰暦12月の別名で極月(ごくげつ)とも言われる。私はてっきり、師走とは師が走ると書くので、年末の忙しい月を意味すると思っていました。実際、師走坊主、師走浪人という言葉があるので、盂蘭盆(うらぼん)と異なり歳末には布施や収入がなく落ちぶれた状態で、せちがらい現代の忙しく働く年の瀬を想像していました。しかし、師走という言葉は初めに“しはす”と書かれ、日本人なら誰しも知っているあのなつかしい竹取物語(かぐや姫が何人もの男性の求婚を断って月に帰って行くお伽話)で使われ始めたようです。お伽話は、生存競争に明け暮れている多忙な人々にも、仕事人間の世代の方々にも、心ときめいた青春時代を思い出させてくれるのではないでしょうか。どうか年の瀬の忙しさに心だけは亡ぼされることなく、心を静め、心を深めて、神様と愛する人々に接して下さい。

今回は児童文学の名著と言われる「おおきな木」(約40年前アメリカで出版。原題はThe Giving Tree。サンパウロ発行「わたしの心よ、何処に?」参照)という物語を簡単にご紹介したいと思います。『昔、おおきなリンゴの木があった。可愛いちびっ子が毎日やって来て、木によじ登り、枝にぶら下がり、木の葉を集めた冠をかぶり、王様気取り。疲れると、木の根元で昼寝の時間。木もちびっ子も、大の仲良しになった。・・・しかし、ちびっ子は大人になり、木はたいてい一人ぼっち。その子は彼女と来るようになり、木の根元には二人の名がハートの図柄に彫られる。木はやり切れない淋しさを味わうのだが、或る日その子がひょっこり現れ、木は大喜び。「さあ坊や、木にお登り。リンゴをお食べ」と言うと、「僕は買い物がしたいので、お金が欲しいんだ」とせがむ。木は困った挙げ句に、「リンゴの実を全部もぎ取って、町で売ったらどうだろう」・・・木はそれで嬉しかった。その後長い間、その子が来なくなったので木は悲しかった。或る日その子が現れると、木は前と同じように嬉しさ一杯に体をふるわせて迎えます。しかし、「僕は忙しい。結婚するので家が欲しい。家をくれるかい?」「私の枝を全部切り取れば、家を建てることが出来るよ」・・・木はそれで嬉しかった。長い年月が過ぎ、初老になったその男が戻って来た。木は嬉しくて、ものも言えない程だった。「さあ坊や、ここでお遊び」「歳は取るし、哀しいことばかりで、遊ぶ気にはなれないよ。舟に乗って、どこか遠くへ行きたいな」「私の幹を切り落とし、舟をお造り。そして、楽しくやっておくれ」・・・木はそれで嬉しかった。

しかし今回は、「だけど、それは本当かな」と一言添えてある。即ち、木はたまらなく悲しかったに違いない。けれども、その子が幸せになれるのなら「それで嬉しかった」というのも本当だったのでしょう。それからまた長い長い年月が流れ去り、ヨボヨボのおじいさんになって、その男が現れた。すると、木はいつものように大喜び。しかし、哀しそうに言う。「すまないねえ。何かあげられたら良いのだが。私にあるのは、ただの古ぼけた切り株だけ」「わしは今、欲しい物はない。もう疲れたので、座って休む静かな場所がありさえすれば・・」「あゝそれなら、この切り株が腰掛けて休むのに一番良い。さあ坊や、腰掛けて休みなさい」・・・木はそれで嬉しかった』(一緒にいるのが、嬉しかった)。

年の瀬には、全世界がクリスマスを喜び迎えます。神の御子イエス・キリストが幼子として馬小屋にお生まれになったことをお祝いします。神様が人間の歴史に入って来られ、共に歩んで下さいました。現代人にはお伽話のようであり、この神の御子・救い主は人間にとって「おおきな木」のようです。聖書では“インマヌエル(神我らと共に)”という名前で呼ばれ、いつも一緒にいて下さる方、人間の幸せのために全てを与え尽くしながら、“それで嬉しかった”と言って下さる方です。

桜井神父
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