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中学生、高校生、大学生会 “釜が崎”体験学習の感想

10月26日(土)〜27日(日)、旅路の里に一泊して、中高生、大学生達と共に釜が崎の体験学習に行ってきました。英神父さまがプログラムを考えてくださり、土曜日の昼食の炊き出しの手伝から私たちの体験学習が始まりました。夕方には、以前は野宿をしていて、今は生活保護を受けて自立に至った男性の方のお話を聞き、夜は、ボランティアケースワーカーとして23年間おっちゃん達の本音を聴き続けておられる入佐明美さんの体験(信仰体験もいれて)を分かち合っていただきました。日曜日はふるさとの家でのミサに行き、よそゆきではない自分で居られたような思いがしました。

土曜日の昼食の炊き出しには300人〜400人くらい(?)の野宿者の方々が列を作っておられました。最初に出された丼ものがなくなると次はおじや、それがなくなると次はスープだけ、それがなくなると「今日はこれまで」と打ち切りになります。2回並んだ人もいるとのことですが、多くの高齢者方がなにももらえず散っていく姿にこころが痛みます。イエスさまが「あなたがこの人たちに何か食べ物を与えなさい」と弟子たちに言われた言葉がこころをよぎりましたがそれにもかかわらず、何も出来ない私______。無力感を味わった体験でもありました。

(佐藤)

以前、釜が崎に行った時とはまた違った印象をうけました。私たちに必死に話かける人、乱暴な言葉をかける人、様々でしたが皆いきることに精一杯だということは同じなんだなあと思いました。

関わることで学ぶことは多いけれど、私たちが今回学んだことは、釜が崎のほんの一部、表面だけにすぎません。これからまた行く機会ができたら、進んで参加して少しでも釜が崎のことを理解したいとおもいました。

(正井)

始め“ガラが悪いな”と良い印象ではありませんでした。しかし、私から「こんにちは」と言ってみたら、笑顔で「こんにちは」と返してくださいました。私からではなく、相手から言ってくれた人もいました。うれしかったです。今回は本当に勉強になり、楽しかったです。またいきたいです。

(中2女子)

イメージとはまったく違っていたので、正直いっておどろきました。なんか、もう、すごいの一言。

(中2男子)

貴重な体験ができた。日本にあんな場所があるなんてはじめて知りました。外国に同じような所があることは知っていたけど、釜が崎の中だけ、時間が止まっているみたいだった。

(高一男子)

私は釜が崎は今回で2回目ですが、前回行った時は“なんだか恐い”という思いがありましたので、今回も行く前は、その時の思いが頭をよぎり、緊張して合宿に望みましたが、炊き出しに参加し、釜が崎の中を歩いているうちに、恐い思いがなくなり、自分にとって少し身近なものになったので、とても良い経験になったとおもいます。炊き出しにはとてもたくさんの人が来ていて驚きました。大変でしたが、食器を返しにきた労働者の人たちに笑顔で「ありがとう」と言ってもらったときは、とても嬉しくて、ここに来て本当に良かったと思いました。 今回の合宿で心に残ったことは、ケースワーカの方が話してくださった体験話とミサです。体験話はとても分かりやすく、興味深い話でした。

その中で『「自分の本音を話せる人に初めて出合った」と労働者の人が言ってくれたのが嬉しかった』という言葉でした。今の私に自分の本音を話せる人や、自分に本音を話してくれる人がいるか分かりませんが、これからそういう人を大切にしたいと実感しました。ミサは私たちが日曜日に参加しているミサとは違った形で行われていて、とても新鮮な気持ちで参加することができました。そのミサが本当に釜が崎の労働者の人達に身近なものになっているんだなあと思い、ミサの大切さを感じました。

この日本にも釜が崎のような場所があることが分かっていながら、目をむけることを忘れがちです。この問題から目を背けず小さな事からでもいいので私に出来る範囲で活動出来たらいいなと思いました。

(高校3年生女子)

釜が崎は今回が初めてだった。炊き出しや釜が崎の雰囲気、歩いていたらしゃべりかけてくれたおじさん、ケースワーカーの方の話、釜が崎独特のミサなど、ここでの体験はどれもが普段味わえない貴重なものだった。私たちは日常の中でこれらの「小さい人々」の存在を忘れがちだが、この体験を本当に生かすために、これらの人々の存在を少しでも心に留め、日々生活していきたいと思う。

(藤井)

今回で釜が崎は2回目です。前回は全然時間がなかったけど、今回はおっちゃんたちとミサに出たり、長い間、釜が崎でボランティアをしている人に会い、沢山のお話を聞くことができました。その話の中で、一人一人が大切にされる世の中になってほしいということを切に願っておられる心に共感しました。私たちは「釜が崎のひとたちは____」と言う言葉を何気なく使っていますが、おっちゃん達はそれがすごく嫌だと思っているそうです。一人一人、名前も違えば顔も違うし、それぞれに過去があり、気持ちがあるのに、私たちはつい偏見の目でおっちゃん達をみることを無意識にしてしまっています。自分もそれと同じように見ていたので、ひどくショックを受けると同時に、考え方が大きくかわりました。

(久保)

釜ヶ崎で、一人の男の人に出会った。長崎出身の人で、昔はよく教会に行っていたという(ラテン語のミサに与っていたそうだ)。一緒にいた英神父さまが、ふるさとの家の日曜のミサに誘ったら、ミサに彼は来た。彼はミサ中に遠慮もなくしゃべっているのだが、そこで聞いた言葉が忘れられない。

聖体拝領前に「俺はご聖体なんかもらう資格はない。こんな俺でももらっていいんやろうか」
ミサ後に「なんか、ミサに出て少し心が楽になった気がするな」
釜ヶ崎からの帰りにもまた彼に出会った。そのときはこんな事も言っていた。
「神様は、俺みたいな人間にも、絶対何か一つは能力をくれてるんや。」
そうして、彼はまた町へと消えていった。僕は、自分の心が少し軽くなったことに、しばらくたって気が付いた。

(三澤)
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