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リアルに生きるとは?(3)〜家庭訪問の分かち合い〜

2002年9月12日に映画「たそがれ清兵衛」の完成披露記者会見が開かれました。「リアルという言葉はなかなか面倒な言葉で、正確に言う事は難しいと思うが、手で触れるというのかな、手で触れる様にこの時代を描きたいっていうか、そこに観客が清兵衛と会話を交わしている様な気持ちにどうしたらなれるでしょう…。『たそがれ清兵衛の家族』と『たそがれ清兵衛と触れ合う人々』との、その人達の息遣いが感じられる様な、肌の温かさとか冷たさを感じられる様にしたい」と映画監督の山田洋二さんは語りました。

監督のことばを改めて実感したら、「なるほど」、監督自身が妻をなくした主人公の生き方をリアルにしたことは映画の中心であると気づきました。確かに、映画の中で残された二人の娘に対する主人公の愛はリアルに描かれます。仕事が終わったら時間通り家に帰り、いくら仕事が残っても、主人公が必ず子供との触れ合いの時間、語り合いの時間を作ったことは「たそがれ清兵衛」のセールスポイントではないかと思います。おそらくこの映画は「愛する人に」というテーマをもっとリアルに現すようにと多くの観客の心に訴えているでしょう。

2002年の終わりに、この映画を見て本当によかったなと度々私の心の中で感じています。特にこの映画は2002年の間に訪問した方々のリアリティを思い出すきっかけとなります。家庭や病院で生活している方々との出会いによって、その方々のリアリティに接するようになり、家庭訪問から教会に戻ったら、その方々のリアリティをどうしても教会共同体の信徒の皆さんと分かち合いたいと感じています。家庭訪問のお陰で、その方々の「リアルな生活の大切さ」は「リアルに」実感させていただきました。

一人暮らしや家族から介護を受けている方々のリアリティに倣い、私たちが孤独なリアリティを受け止めて、それを神にゆだねることができたら、なんと幸いなことでしょうと考えさせていただきました。世間の体験の浅い私にとって、家庭訪問で出合っている方々の祈りや信仰の生活は本当にすばらしいです。その方々は孤独なリアリティを共にしながら、「神が必ず共にして下さる」確信を深く抱えています。彼らの喜びの姿を見ると、孤独なリアリティを持っていても、実際に彼らは「一人ぼっち」になることがなく、「神が共におられる」ことは彼らの心の中で強く保持されています。そこで、私にとって家庭訪問は「感謝の祈りの場」となり、互いのリアリティを分かち合いながら、どれほど神は私たちを忠実に共にして下さるかをお互いに実感する「時」となります。

その方々のリアリティを実感させていただいたことから、何年も教会共同体の皆さんと一緒にクリスマスのミサに与ることができなかったことをリアルに実現すればきっと彼らのリアリティにとって大きな支えになるだろうと思って、その旨を尋ねてみました。手っ取り早く、桜井神父や安芸神父と一緒に計画を立て、幾人かの信徒と共に家庭や病院でのクリスマスのミサを実現しました。ミサの間に、長い間、感謝の祭儀を最初から最後まで与ることができなかった方々の喜びの姿を観て、本当に感動的な「ひと時」でした。それこそ、クリスマスのよい知らせであり、御子イエスを迎える一人ひとりの喜びはますます溢れるほど満たされています。

「たそがれ清兵衛」の最後の場面では、主人公は武士の使命から無事に家族に戻り、家族は喜びのあまりに主人公を迎えました。その場面はまさしく家庭訪問のクリスマスのミサのところで深く感じられました。その方々の喜びは本当に「心の底から」生まれている喜びで、それを見た私は「ああ、神は本当にすばらしいですね。数え切れないほどの人々を共にしてくださる神は本当にすばらしいですね。」と一人ごとしながら、これこそ「リアルに生きる」ことの意味ではないかとずっと感動しています。

(バンバン・ルディアント神父)
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