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主任司祭より(3月)

[自分を受け容れる]私達は出来る限り、隣人を愛そうとする。しかし、隣人の欠点(と思われる面)が気になって、愛し切れずに挫折してしまう。ところが、そのような経験を通して、実は自分自身を愛することがまだ出来ていないことに気付くのではないでしょうか。と云うのは、自分にとって一番身近な隣人とは自分自身なのです。人間には誰しも二つの面がある。一つは長所であり積極的・肯定的な面、いわば光の部分です。心身の健康に恵まれている自分、人間関係がスムースに行き仕事に喜びを感じ何事にも積極的な自分、誰とでも交わっていくことが楽しい自分、人生や自然を素晴らしいと感じる自分。もう一つはその逆で、欠点や弱さ、愚かさや惨めさに気付き無力な自分、こんな積もりでは無いのにと思う自分、孤独感や傷ついた心、他人には言えない恥や醜さを感じる自分、いわば陰の部分です。

ところで、私のような甘えん坊は自分に甘く、弱さや欠点も愛嬌と思ってついつい自分と馴れ合いになり、人間的な成長も止まってしまったかも知れません。しかし、真剣に自己を見つめる方々は、特に若い時には自分の陰の部分が受け容れられず、自己嫌悪に陥ることがあります。そのような自分を愛し受け容れることが、まだ出来ないからでしょう。そして、弱さをもった自分を愛することが出来なければ、ましてや自分以外の隣人を愛することはできません。しかし、信仰の点から云って、人間はそういう陰の部分においてこそ神と出会うことが出来るのです。弱さや惨めさという陰の部分こそ神と出会う恵みの場であり、神はそのような私に命を与え、そのような私を大切な神の子供として愛して下さっているからです。実は、この陰の部分を神からも人からも愛され受け容れられていることを体験する時に、人間は真実な意味でいやしと喜びを感じ、成長の道を歩むのだと思います。その時、同じ弱さをもった隣人をもそのまま愛することが出来るのではないでしょうか。

別の観点から云えば、人間は往々にして、自分の理想像や光の部分だけを真実な自分であると錯覚し、陰の部分は自分の姿とは考えたくないようです。両面とも自分自身の現実なのですが、陰の部分を嫌う気持ちが時折頭をもたげて来ます。光の部分だけを人に見せたいとさえ願うこともあるでしょう。しかし、神はそのような私を造り、そのような私を全面的に愛しておられるのです。「その弱さをもったお前を愛している。その弱さも、お前のかけがえのない部分である。そのままのお前を愛している」と。神は正義の秤によってではなく、親が子供に対するように、ただ愛によって、しかも愚かな愛によって私を受け容れて下さっているのです。私達は陰の部分において、慈しみの神と出会うのです。人間は神の愛を知ることによって、自分も他者もありのままに受け容れることが出来るのではないでしょうか。

[最後に]
まだ自分をも他者をも受け容れられず、自己嫌悪や他者の批判を止められない場合、私が神学生の時に教えられ実践(?)してきた秘策をお伝えしたいと思います。

  1. 海辺や山上など人けのない所で、心にあるモヤモヤをそのままの表現で腹の底から叫んでみる。
  2. 一人で自動車を運転する方は、窓を密閉し走りながら叫ぶのもよいでしょう(眼だけは前方を向いて下さい)。叫ぶことによって心のモヤモヤを外に出してしまったので、絵に書いたように心が晴々として来るでしょう。何度か実践すると、悩んでいた自分がバカらしくなり、人間存在が大好きになるでしょう。
  3. メモ用紙にそのままの言葉で書き出して読んでみると、心の中のモヤモヤが外に出たことに気付くでしょう。文字にされたものを読むと冷静になり、何故こんな小さな事に拘っていたのかと驚くことでしょう(そのメモ用紙は破棄して下さい)。
  4. 信頼できる方に、そして一番信頼できる神さまに直接打ち明けるのも良いでしょう。真実な対話と回答が与えられると思います。私達は自分を受け容れていく過程の中で、神と出会い、他者を愛するという信仰の喜びが与えられるのではないでしょうか。
桜井神父
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