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祈りの道場に参加して

沢山の方が参加され、改めていま必要(ニーズ)のある企画だったと思いました。私自身、よく祈れない悩み(?)をもって参加しました。鍛える道場というイメージでなく、祈りの心と仕方をゆっくりと、明快に、身にしみるように教えて頂きました。頭だけの祈りでなく、いのちへの気付き、呼吸法等々、いわば体ぐるみの、生きた祈りへの誘いであり、その点日本人向きの祈りの道とも思えました。一人ひとりの多様さを尊重した配慮が感じられ、よく用意された企画だったと思います。

六甲教会 柴田

「そうそう、これ申し込まなくちゃ」とHさんが手にしたプリントを覗いた私。「何ですのそれ?!」。強烈な第一印象。ネーミングだけで思わず「私も行く」。そこはまさに道場だった。身体をリラックスして祈る。これが、存外難しい。雑念に襲われる。自分の緊張を知る。私は自分の頭の重さにとらわれ、グラグラする首が不安定このうえない。ご指導のバンバン神父様の『肩の凝り、身体の緊張を味わってみて下さい』という言葉には助けられた。硬直している自分を情けなくも認めた。ふだん軽々しくも「身を委ねて」と言っているのに、私はおのれの身ひとつ律しきれないんだなあ、とわかっただけでも予想外の満足感。道場なんだから繰り返し修業すればいいのかなと納得。とにかく面白かった。

北須磨教会 相澤

日ごろ雑用に追われ、社会の中にどっぷり漬かり切っている者にとって、必要とはわかっていても、祈り(神との対話)の体験はなかなか難しい。半日以上自分を振り返り、神とじっくり対話できた恵みに心から感謝します。今までにもチャンスはあり、参加はしていましたが、特に今回はなぜか無性に参加したかった。祈る方法として、三つのやり方を体験し(体で祈る・御言葉で祈る・想像力で祈る)、どれをとっても、神とのすばらしい対話が出来ることを体験させていただいた。特にその中で「み言葉の祈り」の箇所、知恵の書(11:23〜26)の中で、「あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる」この言葉を深く味わった時、なんと私は今までに多くの人を先入観でもって裁いてきたことか。思い通りにならない自分に苛立ち、そのことを他人のせいにしてきたことか(ただし、大いなる分かち合い、親密なるぶつかり合いは教会共同体としてこれからも必要なものだと思うのですが)。存在するものすべて良しとしてお創りになった神を知っているつもりで、本当はわかっていなかった自分に愕然とさせられた。祈りの大切さを今回ほど痛感させられたことはありませんでした。願わくばこのような機会が多くあることを望み、各小教区で地域で家庭で、祈りの集いを広めていきたいと思っています。最後にこの企画をして頂いた六甲の神父様、信徒の皆さんに心より感謝申し上げます。

三田教会 新納

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