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主任司祭より(6月)

[前月号より ― (イエスの愛)私が愛したように互いに愛し合いなさい]イエスは、第二の掟として旧約レビ記19章を引用し、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられました。パウロも、「律法全体は、隣人を自分のように愛せ、という一句に尽きる」(ガラテヤ5章)と言っています。しかし、ヨハネ福音書によれば、イエスご自身による新しい掟として、「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命令されました。この新しい掟は、最後の晩餐の席で弟子達にどうしても残しておきたかった、いわば遺言のように語られたイエス独自の言葉です。限りある人間の言葉で、一体どのように心のうちを伝えようか・・。神の言葉を残すには、人間の言葉は余りにも貧しい。イエスは考えあぐねるかのように、言葉を探されたのではないでしょうか。そして言われたのは、「私があなた方を愛したように」という簡潔な言葉でした。しかし、この新しい掟は旧約の"隣人を自分のように愛せ"と云う教えを含みながら、より積極的で現代的な意味をもっていると思います。それはどういう愛し方なのか、3年間イエスと寝食を共にした弟子達はすぐに理解出来たことでしょう。

 即ち、イエスは父のふところでの栄光を捨て、弱い人間性を引っさげながら、地上では枕する所もない者となられた。毎日町々村々を巡り歩きながら、人々に慈しみと憐れみを示された。道端で出会った異邦人も見ず知らずのライ病者をも隣人とされた。見捨てられた人々や孤独な人々の魂の叫びを聞き、共に過ごされた。そして、一人一人と真実な交わりをもたれたと思います。人々にもまれている最中でさえ、自分の衣に触れた一人の婦人に心を留められた。群衆の中で一人ザアカイを選んで、名指しで呼ばれた。イエスの愛は決して型にはまったものではなかった。一人一人に同じ方法・同じパターンで愛を示されたのではなかった。その人その人に相応しい、ごく自然な方法で相手の望みに応えられた。単なる経験や世間の常識による愛し方ではなかった。裏切りを知っていても3年間ユダと共に過ごし、最後まで"友よ"と呼びかけられた。十字架の前で三度も否み逃げてしまったペトロには慈しみのまなざしを向け、再会した時には"お前は私を愛しているか?"とだけ尋ねられた。イエスが愛されたのは、相手の素晴らしい面だけではない。私達が生きている競争社会では、人は能力や体力、業績や成功によって評価される。失敗や弱さ、罪や過ちは批判の対象となる。人間の社会には競争原理が働いていて、すぐに差別や優劣が付けられてしまう。しかし、イエスは一人一人の人間をありのまま受け容れられた。失敗をしても過ちを犯しても、その人間を愛された。ご自分を十字架にかける役人や兵隊達には、"父よ、彼等をお許し下さい"とだけ祈られた。許すしかし罰を与えるとか、許すしかし償いをしろとは言われなかった。イエスは命を賭けて、とことんまで人間を愛された。愚かなまでに人間を愛された。一人一人の人間を、その人その人を、かけがえのない神の命として愛されたのだと思います。

 実は、人間の幸せはこのような愛を見出すかどうかに掛かっています。このイエスの愛が容易に見出され、また身近に実践されているのは、家族間・親子間ではないでしょうか。私個人の経験でも、例えば親が病気の子供、我が儘な子供(誰のこと?)の一人一人に対して抱く愛情は、各々の子供を差別なく受け入れ、その子供の成長(自律性・創造性・責任感等)を願う真実な愛であったと思います。子供もまた親を敬愛し、親の愛を忘れることが出来ません。子供は人格的に成長するとき、失敗から立ち上がったり困難に立ち向う健やかな人間に育って行くのではないでしょうか。家族は競争相手ではなく運命を共にする者同士なので、イエスの愛が見出し易いことでしょう。子供達がその愛を身に受けて成長して行くなら、イエスの愛は拡がっていくと思います。コルベ神父やマザ―テレサはイエスの愛を拡げた方々ではないでしょうか。

桜井神父

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