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主任司祭より(7月)

[人間の顔]人間は◯◯歳になると自分の顔に責任を持ちなさい、と子供の頃に教えられたことがある。そういう想いで鏡をみると、寅さんよりぶさいくな顔だなー、未だにこんな顔で良いのだろうかと失望してしまう。逆に、午(ウマ)年生まれなので面長だし武蔵風(?)の趣きのある顔かも知れないと安堵する時もある。皆様は、ゆっくりと自分の顔を鏡で見たことがありますか?鏡の前でじっとしていると、我を忘れて奇妙な想いに駆られたことはありませんか。鏡に映っているこの人は、一体誰だろうか?一体、何者なのだろうか?私とは何?そもそも此の世とは何?不思議で不思議でたまらなかったことがあります(暇人やなー)。

人間の顔は、神秘であるようにさえ思われる。平均的に横15センチぐらい、縦20センチぐらいの約300c・の小さな面積の中に、眉毛・目・鼻・口の四種類の造作しかありません。髪の毛と耳が周囲を囲んでいるとは云え、顔面の四つの造作だけで人の見分けが付くのは不思議です。この地上に住む60数億人の一人一人の見分けが付きます。或る知人とロンドンの街角で偶然出くわしても、間違うことはありません。満員電車や三ノ宮の雑踏の中でも、知っている人の顔はすぐに分かります。瓜二つの双子の場合でも、親には見分けが付くようです。人間の顔は、それ程一人一人かけがえのないその人だけの顔なのです。過去何万年の間に地上に現れた数え切れない程の人々も、一人として同じ顔の人は無かったと思います。未来に生まれてくる人々の中にも、同じ顔の人は現れないでしょう。万一私と全く同じ顔をしている人に出会ったら、気持ち悪いどころではありません。気絶してしまうでしょう。顔は顔でも、モナリザや小野小町、ダビド王や光源氏のような顔だったら、もっと幸せだったのにと羨む方がいるかも知れません。しかし良く良く観察すると、目や鼻が1ミリ2ミリほど上下左右にずれているだけです。大差はありませんので、自信をもって下さい。私の顔は、如何なる他者も持つことが出来ない私一人だけの顔なのです。

一人一人の異なった顔は、如何なる人間も唯一無二の存在であること、創造主である神が豊かさに満ちていることを示していると思います。気が遠くなる程の宇宙の悠久の歴史の中で、この顔をもった“私”という人間は1回だけ地上に現れるのですが、どんな他者とも区別された私独自の人格を持った人間なのです。実は、一人一人の人間の顔が異なっている以上に、一人一人の内面、即ち人格はもっと微妙に異なっていると思います。今私はこのことに悩んでいる・・、今私はあのことを喜びに感じている・・が、その喜怒哀楽をどんな他者も私と同じ感受性をもって経験することは出来ません。自分の喜びや哀しみ、判断したり決定する時の内面の動き、責任感の度合い等々、一人一人異なっています。“私を私たらしめているこの人格”をもった人は過去にも現れなかったし、未来にも決して現れることはありません。もしも私と同じ人格をもつ人がいたとしたら、気持ち悪いですね。実は、何兆億々万人の人間が歴史の中で生き死にしたとしても、私という人間は私一人だけなのです。

人間存在とは一体、何でしょうか? 過去に於いても、現在に於いても、そして未来に現れる人々に於いても、人間は一人一人かけがえのない唯一で且つ二人として同じ人がいない独自な存在なのです。

その一人一人が神の子供であり、永遠から永遠に神様に愛されていることを知るならば、この上もない喜びです。これこそ私達の信仰ではないでしょうか。その信仰に恵まれる時、人生の風雪に耐えながらも且つ“微笑む”というその人にとって最も美しい顔に成熟して行くのではないでしょうか。その信仰によって、他者の人生を共感できる健やかな人格に成長して行くのではないでしょうか。

桜井神父

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