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主任司祭より(9月)

[前月号より ― 山上から眺めつゝ想う] 
 神戸は美しい山々と内海に囲まれた風向明媚な都会であり、人間が住んでいる町だなーと思います。仕事ばかりの東京砂漠に25年もいましたので、いつか晩年になれば神戸に帰りたい、ぶらぶらと六甲山峰を散策できればと夢見ていました(もう晩年?)。少年・青年時代にはカブト虫を取るため、紫陽花を見るため、100万ドルの夜景を見るため、六甲山や摩耶山に登った日々がなつかしく思い出されます。"親の恩は山より高く海より深い"と言われますが、何故か海を眺めていると母を、山々を仰ぐと父を思い出します。人は自分の亡き親を通して、無意識のうちにも神様のふところに心が向かっているのかも知れません。「私は目を上げて、山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。天地を造られた神のもとから」と詩編作者(121)は祈っています。

 詩人は次のように詠みました。「山ほど良いものは沢山ないでしょう。何か何かと探し廻るのだけれど、人生の野原にはたいしたものはありゃしないようだ。"山を愛する"なんてこと言いますまいね。そんな大袈裟なこと、どうして言えましょう。山に可愛がってもらいましょうよ。そしたら、どんなに私は嬉しいだろう」(八木重吉)と。子供の頃、近隣に山の大好きな方がおられました。戦渦から九死に一生を得て帰国されたので人生達観されていたのでしょうか、戦友のことを祈っておられたのでしょうか。毎朝出勤前に軽い登山をし、休日には六甲山を終日独歩で横断縦断しておられました。会社では押しも押されもせぬ立場にあった方ですが、私が修道院に入ることを「彦孝君の選んだ道は最高の就職ですね」と言って喜んで下さいました。その方は今90代で、心静かに悠々とご健在です。お会いすると、「世界一素晴らしい家内や子供達に恵まれて幸せです」とニコニコ話をされます。

 イエスも、一人静かに祈るため夜通し山で過ごされることがあった。日々せわしなく地上の事柄に埋没している現代人も時には、静寂な場所で魂の休息を求めることができれば良いのに・・と思う所以です。雑踏の中で孤独を紛らわすよりも、静けさの中の神体験こそが人間を真に生かすものではないでしょうか。静寂や孤独は人を神体験に導く良い機会だと思います。私の父は90歳で亡くなるその当日まで、朝5時頃から六甲山に登っていましたが、健康法と云うよりも神体験の時だったように思われてならないのです。息子の錯覚かも知れませんが、最期の頃の父の表情の中に何か仏のような相を垣間見たことがあるからです。父は午前はボランテイアー活動、午後は囲碁、夜は写経と念仏・・と孤独のうちにも人生を楽しんでいましたが、息子はと云えばやっと午後の部だけが似てきた状態です。

 さて私自身は、山に登ると下界をゆっくり見下ろすのが好きです。私にとっての神体験のひと時です。夕暮れ時になると各家に灯がともり、夕食の準備と一家団欒のひとときが始まるようです。山上から一人淋しくチョンガの私が下界を見下ろしていると、どの家庭も暖かな幸せに包まれているように感じられて来ます。しかし同時に、どの家族も何らかの悩みや苦しみ、疲労や病気を抱えているのではないだろうか・・と祈る気持ちになってきます。下界を歩いている時には、大きな家・小さな家・立派な車・みすぼらしい車・・と云うように比較しながら見ていたかも知れませんが、山上からは全てがマッチ箱かミニチュアのようにしか見えません。そういう外面的な事柄には、全く差がないかのようです。下界の人間が学歴・業績・財産など小さな虚栄を競い合いながら生きているのが、おかしくなって来ます。些細な事に目くじらを立てていた自分が情けなく思われます。実は、1000メートル足らずの山頂からでも"人間というもの"そして"人生というもの"が見えて来るのですから、もっと上から見ている方はどのような思いを抱かれているのでしょうか。その方は多分、一人一人のまごころを見ておられるのだと思います。                         

桜井神父

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