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主任司祭より(11月)

 [山上の説教 ― 真福八端] 毎年11月1日"諸聖人の祝日"に読まれるマタイ福音書5章はイエスが山に登り、弟子達に語られた説教です。しかも、「イエスは腰を下ろし・・口を開いて、教えられた」と荘厳に書かれているので、いつも腰を下ろしたり口を開いたりしている私達とは違って、余程重要な教えを述べられたのでしょう。イエスの説教の核心だと思います。信仰の内実を問いかけています。この説教には、人間の常識や世の通念を180度価値転換させる力を感じます。真実の幸福をめざして登って行く信仰の八つの階段のようであり、聖人をめざして行く険しい道程のようにも思われます。個人的にはこの箇所を朗読するたびに、神秘が迫ってきて涙を感じることがあります。人間には語れなかった言葉ではないかとさえ思われてきます。どうしてこんな単純で平易な言葉によって、神と人間の深い交わりを表現できたのだろうか、と驚きを感じます。

 真福八端の冒頭は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という有名な説教です。実は、この一節があるだけで多くの人々が聖書を読み、毎年のベストセラーになると云われる程です。しかも、この至福の教えは説明文ではなく、「あゝ、幸いなるかな、心の貧しい者よ!」という感嘆詞であると言われます。つまり、未来や来世への期待ではなく、事実として今ここで神の祝福に与ることができるという信仰の現実なのです。"心の貧しい人"とは、自分の弱さや貧しさを知る人、自分の無力さを知って神にひたすら頼る人。即ち、人間をまことの幸せに導くのは、己の力で獲得できる何物かではなく、神との交わりを通して与えられる恵みだけである。この信仰上の態度は、詩編などに登場する"アナウイン"の態度を反映しています。アナウインとは、苦しむ者、哀しむ者、貧しい者、柔和な者、謙虚な者、弱い者、無力な者等と多様に訳されています。心の貧しい信仰者は神以外に依存すべきものを持たないので、すべてを神に委ねるのです。"心の貧しい人"の後は、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人・・・と続きますが、"これらの人"は全て、第一にキリストご自身のことではないでしょうか。もしも「教会は何故、世に向かって福音宣教できていないのか?」という質問があるとすれば、「キリスト者と呼ばれる者が、このキリストを日々生きていないから」と云う単純明解な答えが返って来ることでしょう。厳しい! しかし、曾野綾子さんもかなり厳しいことを書いています。「(自分ではなく)他人を幸せにしたいと云う思いのない人は、一生大人にならないし、充たされた生活もしていないように思う」(著作「安逸と危険の魅力」)と。

さて、真福八端はすべて、"その人は幸い"という神の祝福で結ばれていますが、この言葉には特別な意味があるようです。それは神の喜びを示し、「その喜びをあなた方から取り去る者はいない」(ヨハネ16章)とイエスが言われた喜びであり、人生の偶然な出来事や変化に左右されない幸せを意味しています。神の前で、十字架像の前で、ひとり静かに泣くことの意味を知っている者に与えられる、あの霊的な喜悦でもあると思います。しかも、人間として生まれてきた目的そのもの、人の一生が目指しているもの、人類全体が探し求めているもの、即ち、神との交わりと一致という究極の喜びです。しかし、人々が通常幸せを感じるのは、健康・愛情・友情・成功・名誉・財産等々です。そして、これら地上の幸不幸は入り交じってやって来るだけでなく、有限かつ過ぎ去って行きます。シンガーソングライター中島みゆきは"幸せ"について歌っています。♪♪ 幸せになる道には二つある。一つめは願いごとうまく叶うこと。もう一つは願いなんか捨ててしまうこと。せんまいね 〜 ♪♪ 実は、真実な幸せとは、願いごとが叶うかどうかではなく、願いを捨てるかどうかでもない。ただ"神との交わり"という一事のうちに潜んでいるのです。イエスのご生涯も、その内面は父なる神との交わりだったのではないでしょうか。この"神との親しい交わり"にこそ、私達の本当の幸せがあるのです。


       

 桜井神父


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