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第5回 「祈りの道場」に参加して

感想文を書くように言われ、祈りを言葉にする難しさと内なることは沈黙しておきたいという思いでしたが、その回のテーマが「出会い」だったので受けてしまいました。
私は今春に退職をし、これからは自分の信仰と生活の意識の隙間を埋めていかなければと思っていました。霊的書物を読み、講座と黙想会に参加しましたが、多くの究極の言葉と「べき」に圧倒され、私の内へは消化できずに知識に留まるものでした。そんな時に二回目からの「祈りの道場」のことを知り、私に必要な訓練の時と場が用意されているかもしれないと参加しました。

指導司祭の導きにより自分の生活での体験、イメージ、御ことばを手掛かりに黙想し、祈りを体験するものでした。私が指導に忠実に努めたことは、先ず姿勢を真直ぐにするということでした。自分を開こうとしても自分の意識だけではできなく、身体を使ってしかできなかったからです。次に祈り始めは息に意識を集中しているということでした。息と共に自分の内へ入っていくしか静けさの中に留まることができなかったからです。それでも私の長年の習性から意識を集中していることから逃げてしまう私があり、漂っていることが多くあります。しかし私がどうであろうと、私でない方の在ることが顕然としているのなら、祈るために坐るしか仕方のないことです。私にとって焦る事は祈りの障害となります。「今、私はあなたに祈っております。このあるがままの私を受け入れ、形成して下さい」と願って待つしか仕方のないことです。

今の私の祈りでは人のために祈る豊かさがなく、自分の弱さ、勝手、歪みから本物を覆って見えなくしてきた事ばかりが思い知らされます。この覆いを取り除いて頂く日々の祈りをミサで確かなものにして頂くよう願って捧げます。覆いの下には自分では動かせない自分が在る事は確かなようです。自分で動かせる自分なんて古い私です。私の余生に祈りがあるのではなく、祈りから私の余生があるようになれば「私の隙間は埋められました」と答えられるのではと思っています。

(三田教会 岸本)

第1回目は寒中道場でした。暖房はありませんので防寒は各自で。という事でしたので覚悟して参加しました。2回目は四旬節中なので断食道場という事で、それなりの覚悟で参加致しました。回を重ねて5回全てに招かれた事に感謝しています。
神に一方的に話しかけるのではなく、聞くことを教えていただきました。体全体で生かされていることをゆっくり味わうために目を閉じて想像力で祈ると睡魔との戦いが始まります。そんな私でしたが、母の胎に居る時から名前で呼んでくださった神が、受肉によって人となられ、今もいつも共に居て下さる事に気付かせていただけました。神と共に過ごす静かな時間を準備していただきました事を感謝いたします。
        

(伊丹教会 深田)

雨降る静寂の中で沈黙の内に祈りの道場は開かれました。この度は出会いについての考察でした。様々で何げない出会いから人生を変える程の出会いに気づかされました。私は一人の司祭に出会って人生が変わりました。最も崇高な出会いは神との出会いです。ミサ毎に神と出会い、ご聖体によってキリストに触れ、神に生かされている日々は恵みです。出会いは神の摂理と思います。
出血症を患った女がイエス様と出会って衣に触れて癒された場面を想像しながら、イエス様の哀れみと慈しみの眼差しの中で女の苦しみと喜びを共感できた事は何よりの修得でした。人は神と出会い、人と出会って、お
互いに支え合いながら成長し、永遠の命に招かれる日を希望するのでしょう。

(大西)


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