ホーム 六甲教会について お問い合わせ
主任司祭より(1月)

 [新年を迎えて] 皆様、明けましておめでとうございます。2004年・平成16年という新しい年を迎えました。神の祝福のうちに新年をことほぎ、皆様とご家族・ご友人お一人お一人のご健康とご多幸を心からお祈り致します。年男・年女の方々には、本当におめでとうごザル。
私たちが教会共同体・神の家族として共に信仰を深める年でありますように! 平和な年でありますように! との切なる願いを込めて、新しい歩みをはじめましょう。

 昨年の夏、和歌山の串本教会に泊めていただいて「年の黙想」をしたことを思い出しました。♪♪ここは串本、向かいは大島♪♪という民謡で知られる串本です。在籍信徒15名のうち10名が各々の役割を担って日曜日には教会に来られます。司祭不在ですが、月2回は新宮教会から司祭が来てミサがあり、他の2回は集会祭儀者5名が順番で司式する主日の典礼です。若者が少ない地方の教会を象徴しているように思いました。直ぐ近くには本州最南端の潮岬灯台があります。その展望台から360度四方を見渡すと、地球は確かに丸いものだと感じました。黙想中の悟りだったかも知れません。地球の上には60数億人も住んでいるのに、この丸い物体は今も破壊されずに維持されていることに驚きを感じました。それどころか、この丸い大きな物体は60数億人を乗せながら、規則正しく太陽の周りを廻っているのです。昔ロシアの宇宙飛行士は「地球は青かった」と言ったようですが、灯台から見る太平洋の紺碧の海、真っ青な大空、そして天と地が融合している水平線の美しさ、沈んで行く夕日の輝きは格別でした。夜の漁り火と満天の星空も神秘的でした。

 ・・・ところで、このような想いで外界を見ている私という一人の人間は、一体何者なのだろうかと、何度も何度も考えました。そもそも人間とは、自分にとって自分自身が謎である存在とも言われます。本当に、このちっぽけな私という人間は、寿命が来るまで自分が何であるのか分からず、漠然としたまま、それこそ謎のまま生かされて行くのだろうか? この宇宙の中で人間とは何だろうか? もしも神様を度外視してしまうなら、いつまでも不可解のままで終わるような気がしました。年末〜年始のミサで朗読される"ヨハネの手紙"は答えています。「愛する者たち、御父がどれほど私たちを愛して下さるか、考えなさい。・・・私たちは今既に神の子供ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(Iヨハネ3章)。

 潮岬灯台から数キロ離れた所に、串本海中公園があります(黙想中にも、しっかり観光をしていた?)。海エビ(50センチくらい)、大ガメ、海ヘビ、サメ、イルカ、アンコウ、ナマズ、そして数え切れない珍魚・奇魚・怪魚(勝浦方面の太地町には、絶滅の危機にあると言われる鯨の公園もあるそうです)。更には色とりどりの海中植物が棲息しているのにはもっと驚きました。海の中は多分、地上の人間界よりも華やかで、かつ多種多様ではないかと思います。海の生き物だけでなく、地上の珍しい動物・虫・木々・花々等々も、また大空の鳥たちも同じく、それら命あるものの種類は人間の想像力を超えているのではないでしょうか。写真や図鑑などで教えられなければ、人間には想像もつかない程の無数の形と特徴を持っているようです。神さまのユーモアかも知れません。この丸い地球にはこんなにも多くの生き物が生存しているのです。しかも、この丸い大きな物体から何一つ振り落とされることなく、命あるものは全て共存し、一緒に旅をしているのです。海・山々・大空、そして太陽や月や星、その大自然に囲まれながら、命あるものは創造主なる神を賛美しているのです。

  もう一つ脳裏に焼き付いているのは、同じく昨年の夏、教会の平和旬間中に見せていただいた戦争をテーマにした映画でした。「(学徒出陣の手記)聞け、わだつみの声」や「この子を残して」、「ビルマの竪琴」等です。人間存在の哀しさを思い知らされた映画でした。私たちキリスト者も地球という丸い大きな物体に便乗しながら、神を賛美し、地上の平和を願って旅を続けたいものです。         

桜井神父


ページ先頭へ ホームへ
 六甲教会について お問い合わせ
(C) Copyright 2002 Rokko Catholic Church. All Rights Reserved.