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主任司祭より(2月)

[世界病者の日に寄せて ― 病気と介護]
この世は、健康な人と病気の人、世話する人と世話を受ける人とがいてこそ自然な姿ではないでしょうか。或る信徒の婦人は、20年余り姑さんと同居し世話をされたのですが、「食事がまずい。こんなもの食べられない」とか、「嫁が入って来て、息子まで耶蘇に取られた」とか、きつい言葉に一人涙しておられた日々でした。しかし、姑さんが90歳になって、「○○子さん、本当にやさしく世話して下さってありがとう。我が儘を沢山言ったことを許して下さい」と頭を下げられ、その夜は嬉し涙に濡れたそうです。20年間の苦労を全部忘れたほどでしたと。「お姑さんは、病気の辛さや老いの孤独に耐えておられたのだ」ということが分かり、「主人の母を、これ程までにいとおしく感じたことはありません」と述懐されたことを思い出します。しかし、一難去って、また一難。姑さんが痴呆症になり、その後の介護は見るも涙・聞くも涙の肉体労働だったようです。曾野綾子さんも書いています。「高齢者や病人の長い看護は、ほとんど世間から感謝や褒められることがないまま、もしかすると十年も二十年も続くのである。それはただ、神だけが眼に留め、神だけが喜ばれるものである」(著作「必ず柔らかな明日は来る」)。

  最近良く使われる"ホスピス"という言葉は、ラテン語のHospitium(ホスピテイウム)に由来しています。この語は接待、饗応、厚遇、宿舎、宿泊所(昔は、巡礼者を泊める修道院の部屋)などを意味しており、英語のHospitality(ホスピタリテイー,客をもてなすこと)に通じているのでしょう。此の世を一緒に旅している病気の兄弟を、尊敬をもってお世話し、もてなす所ということでしょうか。イエスの言葉が聞こえてきます。「私が飢えていた時に食べさせ、・・旅をしていた時に宿を貸し、・・病気の時に見舞ってくれた。・・私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25章)と。病人か否か、役に立つ人か否か、能力のある人か否かでなく、ましてや性別・年齢・外観・財産などによるのでなく、人間は一人一人例外なく、神の子供としてかけがえのない命を生きている者であるという信仰に立脚したいものです。そこから、人間の自然な感情や本能を乗り越えようとする真摯な祈りが始まるのではないでしょうか。その祈りには、神の祝福と恩寵があると思います。「・・信仰の恵みによって、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5章)。

  キリスト教の真に偉大な教えは、苦しみから逃げようとするのでなく、苦しみを意味あるものとして担おうとする面ではないでしょうか。そして有り難いことに、私たち信仰者は一人ぼっちで担うのではなく、同じ信仰に結ばれた神の家族と共に担い合い、しかも救い主イエスが一緒に担い支えて下さることを信じています。詩人マーガレット・パワーズは「砂の上の足跡」という家族の病気や苦難を信仰によって乗り越えた自伝的な詩を書きました。その詩は主への祈りでした。『或る夜、私は夢を見た。私は、主と共になぎさを歩いていた(・・以後は要約・・)。人生のどの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡。ところが、私の人生で一番辛い時、最も悲しい時、砂の上には一つの足跡しかなかった。私は心を乱したので、その悩みについて主にお尋ねした。主よ、あなたはいつも私と共に歩んで下さると約束されました。しかし、一番あなたを必要とした時に、一つの足跡しかなかったのです。(・・試練の時に、私を見捨てられたのですか?)。主は答えられた。私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試練の時に・・・。足跡が一つしかなかった時、私はあなたを背負って歩いていたのだ』と。神から見捨てられたかのように感じる時こそ、神は最も身近にいて下さるのです。          

      

桜井神父

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