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主任司祭より(5月)

[愛の形と中味・・・花言葉とともに]

 この春、教会の庭には園芸部の方々のお世話によって、それぞれの木や花に名前と花言葉が付けられました。私たちの目を楽しませるだけでなく、自然への関心や想いを深めてくれたと思います。自然の一木一草というものは人間に何かを伝え、何かを教えているようにも感じました。その意味でも、庭の木々や花々は教会にとって大きな財産であり、祈りの雰囲気を作り出していると云えるでしょう。お寺や神社でも、自宅の庭や室内でも、樹木の幽玄さと花々の愛らしさは、私たちに潤いのある空間を与えてくれます。時にはその空間が、恰も神の住まいであるかのように、人間を慰めてくれます。毎日一つ一つの植木鉢に声をかけながら愛情を込めて水をかけている方、花を眺めながら故人を思い出し心を通わせている方もおられるのではないでしょうか。

 17世紀のイタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイは、「神さまは二冊の書物を書かれた。それは聖書と自然である」という有名な言葉を残しています。その二冊の書物に共通するのは、共に"神の愛"を現していると云うことでしょう。とりわけ、自然の木々や花々はそれぞれに"神の姿"を見せていると思います。美しさ、深さ、大きさ、清らかさ、正直さ、謙虚さ、剛直さ、忠実さ、そして平和・喜び・希望・永遠・愛という神の姿そのものを地上に投影しているように感じます。どんな花も自分の美しさを誇示することなく咲いています。他の花と競い合うことなく、また小さく名もない花だからと卑下することもなく、ただありのまゝに創造という神の摂理の中に生きているのでしょう。「花はなぜ美しいのか。ひとすじの気持ちで咲いているからだ」(八木重吉)と詩に詠われる所以です。人間とは可成り異なって(?)いるようですね。それは植物が大自然の中で成長するのに対して、人間は自己中心という厄介なエゴと闘いながら成長過程を辿るからではないでしょうか。子供を見ていると(否、幾つになっても人間は)愛されることによって愛を学び、自らも愛する人へと成長して行きます。出会いと交わりを通して人間が愛のうちに成長することは、神さまの創造の業・恵みの業だと思います。そこで、やっと本論に入りますが、私たちが普段経験する愛について、人間の成長過程から順番に考えてみましょう。花言葉をつゞりながら・・。( )内は、教会の庭にある花の名前です。

(1)生まれた子供はまず、両親や家族の愛情(バラ)によって成長を始めます。血のつながりのある家族間の愛は本能的な面を含んでいますが、人間が生きて行くために、またすこやかに成長するために不可欠な愛でしょう。自然な愛(木蓮)。その中で、人間は節制(つつじ)・従順(鯛釣り草)・希望(アーモンド)・尊敬(ラッパ水仙)の心を養って行きます。
(2)子供が家庭から離れて学校というより広い世界に出かけて行くと、友情・友愛(こぶし)が生まれ始めます。友情はイエスと弟子達に見られるように、利害を超えて生涯を支え合う深い愛、同情(松)や思いやり(チューリップ)へと成熟して行きます。
(3)思春期の年齢になると、誰に教えられることもなく、異性に魅かれる内面の動きを経験するのが通常です。男女間の愛は青春時代のトキメキから始まって、形や内容の変化を経ながら、殆ど生涯に亘って経験することでしょう。その感動や人間の心を揺り動かす力は、音楽・文学・詩歌・絵画などの素晴らしい芸術を数多く生み出してきました。恋に酔う(藤)、愛の告白(チューリップ)、理想の恋(山茶花)、私を想って下さい(ビオラ)、そして純潔(桜)・自制(紅葉)・明るい交際(皐月)も必要でしょう。しかし聖書によれば、キリストの愛、即ち見返りを求めない無償の愛・自分を無にする十字架の愛が最も尊く、人間を救うものであることを教えています。アガペーと呼ばれるこのキリストの愛は、上記(1)(2)(3)の自然な愛が信仰によって高められた形だと思います。アガペーによって人間は真実な喜び(沈丁花)を感じ、人格的にも成長して行きます。それは慈愛(ロウバイ)、愛に忠実(レモン)、あなたのために生きる(ヒマラヤ杉)愛である・・と自然が呼びかけています。
        


桜井神父

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