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一 期 一 会 (9月)


 8年程前、サンフランシスコ南方のイエズス会修道院でしばらく生活していた時、在米邦人の方々のために日本語のミサをしていました。30人ぐらいの方々が家族連れで集まりましたが、長期間現地で働いたり殆ど永住している方々、国際結婚で渡米した方々、その中には離婚したり早くに伴侶と死別した方やご家族が殺害された方もおられました。大晦日の紅白歌合戦を見た時には、一緒に涙しました。互いに外地で出会った者同志なので、ミサの後には集まって、人生の喜びと悲しみを分かち合っておられました。その方々が愛読していた散文詩をここにご紹介したいと思います(作者不詳)。

[ 出会いのとき ]
人間はひとりで生まれて来なければならない。人間は一人で死んで行かなければならない。けれども、その二つの孤独をつないでいる時の連なり、その間、人は一人で生きて行くことはできません。人は出会いによって人となり、係わることによって全てを発見し、実感し、身に付け、創造して行くのです。出会いとは一体何でしょうか。人生という建築を支える幾千幾万の柱。それが出会いです。一本の柱によって新しい建築が立ち上がるように、一度の出会いによって人生が拓(ひら)かれる。一度の出会いによって新しい流れが溢れ出す。一度の出会いによって自分に目覚める。もしこの人と出会わなかったら、もしこれと出会わなかったら、自分は一体どうなっていただろうかと思うことがあります。その想いが出会いに対する謝念。人生とはそれ自体が邂逅(かいこう)・出会いではないでしょうか。

出会いとは共に生きること。出会いとは共に生かされること。出会いとは、共に生かし合うこと。出会いとは、互いに自らを預けること。出会いとは、互いの内に源(みなもと)なる神を見出すこと。出会いとは、開かれた存在と開かれた存在の対話。出会いとは、人には創れない神意の縁(えにし)の結びつきです。人智を超える宇宙の歳月と、測り知れぬ程の生命の歴史が、ただ一つの出会いの中に流れ入ります。あなたは、この茫漠(ぼうばく)とした果てしなき流れの中のただ一点に出会いを迎えるのです。
あなたにとっては敬遠したくなる出会いもあるでしょう。苦手な出会い、不安な出会い、面倒な出会い、嫌な出会い、無意味な出会い。けれども出会いそのものの命は、人間の意思を遥かに超えた場所に息づいているのです。出会いは、あなたが創ろうとしても創れるものではないのです。生かされて生かされて生きる、出会いとはそのしるしです。ならば、この出会いをどう受け止めますか?どう心を尽くすでしょうか?」
              

桜井神父


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