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人生 その大いなる 旅
私たちは此の人生において、一体何処から来て、何処へ行くのでしょうか。何十年か前に母の胎内から此の世に産み落とされて以来、心身共に確実に成長しながら歩んできました。ひとえに親のお陰です。そして、順境の時も逆境の時も、健康の時も病気の時も、喜びも悲しみも幾年月・・・。私たちは数々の思い出を心に刻みながら歩んできました。思い出の数だけ、皺も増えてきました。さて、これからは何処へ行こうとしているのでしょうか。人間は皆、此の世を通り過ぎて行く"旅人"なのだと思います。俳人・松尾芭蕉は「旅人と 我名呼ばれん 初時雨」と詠んでいるように、旅人と呼ばれるのを好んでいたようです。後に「奥の細道」の冒頭でも、自分は旅人以外の何者でもないという気持ちを書いています。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いを迎ふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり・・」と。自分自身と旅が全く同等であり、自分の心が旅の心そのものになりきっていたと云われます。

私たちは時々、勉強・仕事・休暇などのために短い或いは長い旅行をすることがありますが、作詞家・語り手などで知られる永六輔氏は「行って帰ってくるのが旅行で、行きっぱなしが旅だ」(著作「老い方、六輔の」)と言っています。つまり、旅行は或る目的をもって出発し必ず元の場所に戻ってくるのですが、その旅行も実は「旅という行(ぎょう)」であると。さすがに浄土真宗の住職のご子息だけあって、信仰の心が現れているように感じます。因みに、修行僧のことを"雲水(うんすい)"と呼ぶのは、行く雲の如く流れる水の如く、旅をしながら修業するからだそうです。信仰の旅は、雲や水のように流れていく暮らし、大いなる力に委ねながら飄々と歩んで行くことなのでしょうか。禅僧やカトリックの修道者にお会いしても、成程そういう生き方だと感じますよね? 此の世には殆ど未練が無さそうな風情さえ感じますよね? 少なくともお金や名誉などには全く関心がないかのような涼しい顔で(?)、のっしのっしと歩んでおられる姿には敬服します。

さて、私たちの信仰の旅は、最期は一体何処へ行くのでしょうか? 私たちは日々、小さな旅行や大きな旅行をしながら修業していると云えるかも知れません。学校に行くのも会社に出かけるのも、また病気のために入院するのも、強いて言うならば旅行と言えるでしょう。そうした旅行を重ねながら、人生全体としては結局"行きっぱなしの旅"になると云うことでしょう。人によっては早足の旅ものんびりした旅も、また寄り道をしたり途中で道を変更したりする旅もあるでしょう。しかし確実に、最期は"行きっぱなしの旅"になるのです。二度と元には戻って来ないからです。だから、告別式の後いよいよ出棺という時の教会の鐘は少し淋しげに鳴りますが、その音色は一人の人間の波瀾万丈の人生、神様だけがご存知だった数々の徒労や犠牲、愛とゆるしと祈りの行(ぎょう)、その大いなる旅をねぎらい、感謝し、心から祝福するかのように厳粛に鳴り響いて行きます。その方の永遠への旅立ちですから。

3年前に奥様を看取られた永六輔さんは、今でも出張先から彼女に手紙を書いたり電話をかけたりしておられるそうです。天国宛てに?・・と思いきや、自宅宛だそうです。切手をはってポストに投函したり、リーンリーンと20秒ほど呼び出し音を鳴らして、「たまたま留守なのだな」と思ったりされるそうです。「本当に、女房が出たら恐ろしいですが・・」と冗談を言いながらも、今も一緒におられる想いなのでしょう。"旅は道連れ、世は情け"、優しい夫で奥様も幸せですね。しかし、奥様が一足先に行かれた所は素晴らしい所で、決して元には戻りたくないでしょう。なぜなら、此の世で道連れをした方とすぐに一緒になれるのですから・・。しかも永遠に・・。情けだけが、愛だけが輝いている所ですから・・。私たち人間は、天国への旅人なのです。神に感謝。

桜井神父


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