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理想の生き方・理想の死に方

 如何なる人も、自分の人生の最期について一度となく二度となく考えたことがお有りだと思います。中には、死の予感というものをふと感じた方がいらっしゃるかも知れません。自分の最期はベッドの上で最愛の家族に看取られて安らかに死にたい、或いは老衰で自然死を迎えたいと望む方が多いのではないでしょうか。今回の「理想の死に方」という題は、雑誌・文芸春秋(新年特別号)の表題から取りました。各界著名人58名の方々が望む「理想の死に方」には、興味深いものがありました。宗教性のあるものとして、例えば作家の瀬戸内寂聴氏は「出家とは生きながら死ぬことなり。だから今更考えることもなく、人知れず野垂れ死でよい」と悟っておられるようです。ダライ・ラマ十四世は再生・転生を信じ、現世の終わりに古い衣服を新しいものに着替えるかのように死を考えておられます。私が嬉しく感じたのは、聖路加国際病院理事長・日野原重明氏の望みの中に同じものを見つけたことでした。それは、私も寝る前にしばしば聞いているフォーレ作曲の鎮魂曲・レクイエムを聞きながら死ぬことです。この曲を聴くと、神の栄光と天国の有様が恰も目の前に見えてくるように感じるからです。

 理想の死に方について、昨年或る婦人の葬儀・告別式で喪主に当たるご子息が話された言葉が今も脳裏に焼き付いています。「母の生涯を一言で云えば、それは笑顔と感謝でした。どんな時にも笑顔、どんな人にも笑顔、何事にもありがとう、どんな人にもありがとう、と言っていました」と。子供にこのように慕われていた母親は幸せだったと思います。しかし、この婦人は哀しみや苦しみを顔や口には出さないように、日々自分に死んでおられたのではないでしょうか。この方の最期は本当に安らかで、笑みを湛えたようなお顔であったことを覚えています。人間は生きてきたように死んでいくと云われるのは、本当ですね。私などは、此の世の煩いや原稿に追われるストレス(?)等のために歪んだ顔で死ぬのではないかと不安な想いがよぎります。注意しなくては・・、反省しなくては・・。顔で笑って、心で泣いて・・。辛いときには、主の十字架の前で一人静かに涙を流せば良いのですが・・。

 私たちキリスト者にとって、理想の死に方はやはりイエスご自身のそれではないでしょうか。どんな人をも許しながら、かつ全く神に信頼し、全てを神に委ねきった死に方でしたから。えー!あんな恐ろしい死に方が理想の死に方?とんでもない。人々に捨てられ、ののしられ、十字架にはりつけにされ、血を流しながら死んで行く死に方など、普通の人間には ―肉体的にも精神的にも― 耐えられない。そんな死に方だけは、勘弁してもらいたい。・・その通りだと思います。実は、そのようにイエスの死に方を真摯に受け止める時、私たちは非常に重大なことを学ぶのではないでしょうか。つまり、イエスの死に方をそのまま真似ることは到底出来ないのですが、日々自分に死ぬことによって、日々自分の十字架を背負うことによって、イエスの死に方に与ることは出来るのではないでしょうか。イエスの死に方は、死というものが人間存在の最期ではなく永遠の命へと過ぎ越していく救いの出来事であり、神さまと決定的に出会う時であることを伝えていると思います。「心をさわがせるな。神を信じなさい」(ヨハネ14章)と、イエスはその死に方をもって告げておられるのです。日々自分に死ぬという生き方、顔で笑って心で泣いてという生き方、それこそ生きてきたように死んで行く人間の「理想の生き方」ではないでしょうか。日々自分に死に、日々自分の十字架を背負う生き方こそ、イエス・キリストの復活に与ることだと信じています。 

桜井神父



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