ホーム 六甲教会について お問い合わせ
摂理か偶然か

 昭和20年8月15日終戦の当日、私は中学1年生でした。当時焼け野原となった名古屋で、
中学生として焼け跡整理という作業で、戦後という新しい生活が始まりました。終戦当時、まだ信者でもない私は、神奈川県藤沢市にあるカトリックのシスターが経営している施設に預けられました。私のキリスト教との最初の出合いでした。場所は旧ゴルフ場跡に立てられたベビーホーム、母子ハウス、小学生・中学生たちの世話をする広い施設でした。

 戦後の何もない時代のことゆえ、色々の家庭から多くの子供たちが集まって、世話になっていました。中学生で阿部謹也君という、のちに一橋大学の学長となられた方もそのひとりでした。彼は近くの公立中学校へ、私は私立中学校へ通っていました。シスターの世話になるようになって2年目頃、私たちは聖書の勉強を始めました。そして、私は藤沢の修道院の聖堂にてイエズス会の神父より、彼は東京の上野にて、レデンプトール会の神父より、それぞれ別の日に洗礼を受けました。その頃私たち二人の間では、何かと宗教的な話がはずみ、心を分かち合っていくという時間が多くなってきました。中学生の子供であった私たち二人は、将来神父になりたいという考えを打ち明けるようにもなってきました。二人で色々と将来のこと、教会のことを語り合うような間柄に成長していきました。

 ある夜、二人でそのような話をしていた時、中学生で未熟な子供である私は、阿部君に「君は神父になるよりも、何か他の仕事に招かれているような気がする。」と、生意気にも思っていたことを打ち明けてしまいました。すると彼はしばらく沈黙して考えていた様子でしたが、「そうか、ありがとう。」と言って、自分の部屋に帰って行きました。

 私たちは中学校を卒業し、藤沢を離れ、私は大阪の明星高等学校に進学しました。彼は東京の石神井高等学校へ進んだと聞いています。その後彼は一橋大学に入学し、後に教授になられました。私は上智大学へと進み、イエズス会に入会して、司祭に叙階された後六甲学院で27年間教鞭をとり、退職後は六甲教会のお手伝いをして、今日に至っております。一方彼は学者として、我が国のドイツ中世史の分野において、重鎮と称されるまでになり、たくさんの本を著しました。そして一橋大学の学長を務め、学長を務め終えた後、昨年(2006年)71才というお年で天国に召されました。

 学長となられて、一度もお会いしたことはありませんでしたが、私は彼に「君は司祭にむいていないような気がする。」と言ったことは、何か重い責任のようなもの、また恥ずかしいような気持ちがしていますが、これは神さまの摂理だったのでしょうか、偶然ともいえることだったのでしょうか。それは神さまのみがご存知であると、今では信じております。最後に阿部謹也先生のために祈りたいと思います。「先生どうか安らかに眠って下さい」と。                   
                                             安芸瑛一神父

ページ先頭へ ホームへ
 六甲教会について お問い合わせ
(C) Copyright 2002 Rokko Catholic Church. All Rights Reserved.