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    人生の満足感・達成感
          〜ベトナムの両親への感謝〜
  

 先月、ベトナムへ行ってきました。その時に両親の家に帰ったのですが、突然、母が自分の亡くなった後のことを相談してきました。79歳になる母は、今も本当によく働く人ですので、私はそんな話をする親に驚き、思わず問いかけてしまいました。「準備はできているの?」

 過去には様々な問題があったものの、今は余裕のある暮らしができ、もうこの世に思い残すことはない、準備はできている、と母は言いました。「いつでも召されたら、喜んで旅立てる。大きな葬儀はいらない。静かに神のみ元に行きたい。」逆に、子どもとして、両親が亡くなる時にどうすればいいのか、そして海外で暮らす8人の兄弟たちにこのことをどのように伝えるか、私が宿題をもらったように思いました。

 両親には尊い命は与えてもらいましたが、子どもとして十分に育てられてはいないように思います。それでも信仰という大切なものを教えてもらいました。私たち家族は、混乱の時代にバラバラになりました。しかし、信仰で通じ合い、祈りでお互いのことを思いやるつながりが切れたことはありませんでした。そうして2人の子どもが神父になりました。親としてまっとうした人生、やり通したからこその悔いのない人生、熟したからこそ身も軽くこの世を去っていく準備ができたという言葉を、子どもとして寂しくはありましたが、私は嬉しい思いで聞いていました。

 「まだ何か欠けているでしょうか。」と問う青年にイエスは「持っている物を売り払い、人々に施し、天に富を積み、私に従いなさい。」と言われました(マタイ19-20〜22)。若者に対して「あるものを手放せ」と言われるイエスは、高齢者の「まだ何か欠けているでしょうか。」の問いに何と答えられるでしょうか。考えてみて下さい。きっと「充分である。」と言われるでしょう。色々なことがあったけれども充分である、今までのすべてを熟したものとして受け入れなさい、と言われるでしょう。信仰の力によって人生をまっとうできる、これが必要なことでしょう。気楽に、み手にすべてを委ねることができればなんと幸いなことでしょう。

 そうして、できれば若者たちに、人生をまっとうする勇気、生きる力を見せてほしいと思います。見えていない「欠けているもの」に不安を抱く若者たちに、人生としての満足、充分であるという感謝を教えてほしいと思います。年齢に関係なく、現在置かれたところで満足できないこと、喜べないことは問題です。達成感・満足感はなかなか得られないものです。しかし人生がまっとうされるという感覚はいつでも感じられるはずです。それこそが人の人生の模範になっていけることだと思います。神様はきっと導いて下さいます。

多くの苦労の実りを収穫している両親が、人生の模範になってくれたことに感謝したいと思います。
                                          (高山親 神父 )

 

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