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図書紹介

 『壬生義士伝』 (上・下)
                                      浅田次郎 著
                                        (文芸春秋 刊)

 南部盛岡藩を脱藩し、新撰組隊士となった吉村貫一郎は、実は、義と愛を貫き、「南部の桜は巌(いわお)すら砕き咲く」を絵に描いたような、誠の南部武士、義士であった。吉村貫一郎という一人の人を色々な人に語らせることにより、その人物像を浮き彫りにしている。「南部の子だれば、石ば割って咲げ」などの方言での語りは、情景や情感を何とも盛り上げる。死を目前に、遠くにいる妻と子や冥府の父母との対話のシーンは、涙溢れて止まらない。
 時が変わって、貫一郎の息子が稲の品種改良に成功し、故郷の盛岡高等農林学校の教授として赴任する、盛大な歓迎の場面で終わる。人を動かす目に見えない大きな力を考えさせられ、マタイ5章「山上の説教」、真福八端の8番目、「義のために迫害される人は幸いである、天の国はその人のものだからである」を思い浮かべた。親の後姿、家族愛、罪と償い、不条理、深謀遠慮、復活の命などに気付かされる。生き方を問われているようであり、「世の中が良くなって、生き方を知らねえ。そういう馬鹿な男がふえたってこってす」という文中の言葉が頭に残る。
                                              (宮根 憲二)

 


「神道と日本人」 
  
                                      葉室 頼昭 著
                                          (春秋社 刊)

 著者は外科医である。しかし53歳の時に「導かれて」神主になり、現在は奈良の春日大社の宮司である。神道に於て神を信じるとはどういう事か、日本人の本来の姿とはどういうものかなど、 とてもわかりやすく対話形式で書かれている。『罪』の意味は、表音文字である日本語からは、 「体を包む」ことである。中国から伝わった漢字で「罪」と書くから悪いことをした事などと思いがちだが、本来の意味は、「神様からのすばらしい体を包んで隠してしまう」ことだという。 また「穢(けがれ)」とは汚いと言う意味ではなく、『気枯れ』であり、我々を生かしてくれる神様の気を枯らしてしまうこととある。  
 お祓いは、世界で日本人だけが考えたものだという。人間の体は、神様が150億年もかかって 作られたもので、もともとはばい菌などで簡単に侵されるわけがない、すばらしいもの。それをお おい隠すものがつくからダメになる。それはすべて「我」のせいで、我欲があるから「罪・穢れ・ 病気・悩み・悲しみ」が起こってくる。「お祓い」はその我欲を祓って神様の作られたもとのすば らしい体に戻りなさいということである、と。また、「祈る」ということについては、「い」は命、 生きる知恵のこと、「のる」とは宣言の宣の意味、神様のおっしゃる言葉が伝わってくるというの が本来の意味。ただ感謝してすべてお恵みによって生かされているというのが日本人であるとあっ た。全体としてキリスト教と通じるところもあるし、同じ言葉を用いていても違いを感じるところ もある。言葉より、その奥に流れる宗教性、心を読み取ることがより大事ではないかと思う。
  イエズス会の門脇佳吉師も「キリスト者は、自然の中の神体験を神道から大いに学ぶべきだと思 います。そうしなければ、キリストが命を賭けてもたらした教えは、日本人の血となり肉とならな いでしょう。この点を私はキリスト者の皆さんに是非訴えたいと思います。」と述べておられる(「日 本の宗教とキリストの道」岩波書店1997年)。葉室氏の上掲の書は、そうした意味で神道を知 る取っ掛かりになるかと思う。         (北上 千恵子)

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