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  一 つ に な ろ う
                                   

J.マシア

 東京から米子まで飛行機で飛んだ時、富士山の北側を通り、雪を被った富士山を初めて上から眺めることができました。とても感動しました。それは新幹線の窓から眺める富士山の姿とは違います。川口湖から見た富士山ともまた違います。日本の代表的なこの山を描いた安藤広重の絵が浮かんできます。物事を多くの観点から見れば見るほど、その全体の姿がよく把握できるようになるものです。しかし人はたびたび物事を二つの極端な観点から見て、あれかこれかという二分極ものの考え方をすることが多いのではないでしょうか。

 最近はコンピューターのおかげで、そういったものの見方が強まるのではないかと懸念されています。「白か黒か」、「イエスかノーか」と、そうでなければわからないというように物事を考えると、人々の間の意見の相通が難しくなります。教会の中でもこうした問題に直面することがあります。その解決のために、次の例え話しから示唆を受けたいと思います。

 ある小教区で、刷新を目指して信徒大会が開かれました。その時、話し合われた内容を伺うと、信徒が三つのグループに分かれていたことが明らかになります。それをA組,B組,C組と呼ぶことにしましょう。A組はこう主張しました。「私たちの小教区の刷新を実現するためには、まず何よりも祈りが大切だ。私たちは、これから、典礼を一層良いものにしていかなければなりません。」それに対してB組が言いました。「祈りは結構ですが、私たちと神との縦の関係だけを強調するだけではもの足りません。私たちと社会との横の関係を忘れてはなりません。そのためにもっと社会活動を大切にする必要があります。」
それに対してC組は言いました。「祈りも活動も結構ですが、私たちの信仰の理解を深めなければ、両方とも浅いものになりかねません。従ってもっと要理の勉学に励みましょう。」
このようにして図面1のようにその小教区の信徒たちは三つの旗印を立てました。
 
  主任司祭は、信徒たちがやっていたことを黙って見ておられました。その年はA組の人が会長になり、その後の一年は一番目の旗印の路線で教会が動くようになりました。二年目はB組、三年目はC組のやり方ということになりました。その間、主任司祭は黙ってみておられました。四年目になると皆、疲れてきました。ある年配の信徒は言いました。「このままだとまた同じことの繰り返しになるのではないか。刷新などはもういやになりました。」そこで意見が一致しないで、信徒たちは主任司祭の意見を求めました。水戸黄門のような主任司祭でしたが、しばらく考え込んでから彼はおもむろに言いました。「みなさん、この三年間にそれぞれのグループが使った旗印を持ってきてください。」信徒がそれを持ってくると、主任司祭は三つの旗印を机の上に一つずつ重ねていき、図面2のような十字架の形を作りました。「みなさん、祈りか活動か、活動か勉強か、勉強か祈りかという割り切った考え方を止めましょう。三つの矢印がともに重なり合っているところがあるのではないでしょうか。丁度そのところからコミュニケーションが始まり、そこから刷新も行われます。ただし、重なり合っていないところがあるので、あくまでもコミュニケーションの難しさが残り、十字架の苦しみがあります。これから手を取り合って、教会内部のコミュニケーションをより良いものにしていきましょう。」

 なるほど信徒の祈りと行動と信仰の理解は互いに育て合うものです。教会は使徒行録(2,44-47)の中でルカが描くような源泉に立ち返る必要があります。「祈ること」、「社会の中で信仰を実践すること」、そして「信仰の理解を深めること」は密接に結びついているはずです。その三つの中の一つを除くと他の二つが成り立たないのです。このことを忘れると、刷新は一方的になり、極端から極端に揺れ動く教会で皆疲れてしまい、刷新はいつまでも行われません。教会内部の円滑なコミュニケーションつくりに励みたいものです。

  
※ 使徒行録2、44 -47
  信徒たちは皆一つになって、全てのものを共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事し、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

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