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図書紹介    『イエスはなぜわがままなのか』     

                              岡 野 昌 雄 著 (アスキー新書)
 

 皆さんは、キリスト信者でない友人・知人からいろいろと質問されたことがあると思いますが、その中には次のようなものはないでしょうか。あるいは自分で聖書を読んだときに、疑問を持った経験はないでしょうか。
 
愛と平和を説くキリストは、十二使徒の派遣に当っての心得として、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。」(マタイ10/34〜 ルカ12/49〜)と言ったのは、何故なのでしょうか。

 お腹が空いていた時、実をつけていなかったイチジクを枯れさせたり(マタイ21/18〜 マルコ11/12〜)、豚を集団入水させる(マタイ8/28〜 マルコ5/1〜 ルカ8/26〜)のはイエスの理不尽。12歳の息子が親に対する言葉としては生意気なイエス(ルカ2/41〜)。神殿の店をひっくり返す暴力的なイエス(マタイ21/12〜 マルコ11/15〜 ルカ19/45〜 ヨハネ2/13〜)。・・・

 選んだ弟子ユダに「お前は生まれてこなければよかったのに」(マタイ26/21-25 マルコ14/18-21)と言うのは、神としてはあまりに冷たく無責任です。奇跡とか復活とか、「非科学的」なことをどう考えたらよいのでしょうか。私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。・・・・・

 ほかにも、いろいろと分かりにくいことがいっぱいあります。聖書を通じて語られるイエスには、良くも悪くも多くの誤解のもとが含まれているようです。

 また、「聖書に書いてあることは本当に事実なのですか?」「今日の世界で起きている出来事って、神様は随分と残酷なことをされるのですね。」と問われます。さらに、キリスト教徒の『罪』『教会』『祈り』などは、ともすれば私たち自身も混同して使っているようですが、一般の日本人の考える意味とは少し違う言葉です。・・・

 この本はそれらの疑問やズレをとりあげて、「聖書」の読み方、キリストの考え方を、優しく合理的に説明しています。歴史学や聖書学からではなく、信仰者として「聖書」の受け止め方を語ります。そしてクリスチャンにとっての「十字架」と「復活」の意味、「信じる」とはどんな事なのかを述べています。「信仰者となることは、自分がいつも神とどのように向き合っているのか、周りの人々とどのように向き合っているのかを問われ、根本的な変革を迫られる立場になること」なのだと、著者の信仰告白があります。

 日本文化の中で生きる私たちキリスト者は、イエスをどうとらえ、どう生きていくのか、日々そのことを明確にしていかねばなりませんが、信仰の基盤を考え深めていく上でこの本は大きな示唆を与えてくれると思います。
 なお、著者は大学(ICU)で哲学を40年間教えているアウグスティヌスの研究者で、今はフェリス女学院の学院長を務めるクリスチャンです。
                                                 (飯塚)


 

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