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平凡な時にこそ

                               協力司祭 ダニエル・コリンズ

 復活の主日から始まった復活節は、40日目に主の昇天を祝い、50日目に聖霊降臨の主日を迎えて終了する。今年も聖週間の典礼は本当に素晴らしかった。特に復活徹夜祭では、ロウソクの光、パイプオルガンの音色、高らかな人の歌声がおのずと会衆の心を高揚させ、キリストの復活を心から祝う気持ちで満たした。そして、洗礼志願者であった人は洗礼によって、その他信徒は洗礼の約束の更新によって、神さまに向かって気持ちを新たにした。こうして毎年、荘厳で美しく、きらびやかな典礼を終え、私たちは非常に満足する。

 そこで私が気になるのは、私たちは本当に神の働きをつかめたかどうかということである。人間はどうしても目に見えるものによって、神の働きを感じ取ろうとする。「セレモニーを通して、キリストの光を感じる」それは確かに典礼の大切な目的の一つであるが、そこに、目で見ること自体が目標になってしまう危険性、単なるセレモニーに終わる恐れがある。

 復活祭が私たち信者にとって大切であることは間違いない。盛大に祝うのは当然である。しかし、それは信仰の終着点ではなく、出発点である。聖霊降臨の主日を終え、待降節が始まるまでの間、典礼暦においては平凡な期間が始まる。特別ではない、何もないときに、神は私たちをより一層導いてくださり、何もないからこそ、私たちも神の霊の動きをより一層感じることができると思う。私は常々「黙想」の期間、祈っている時よりも、祈りと祈りの間の時間が重要だと感じている。食事のとき、寝る前のひとときなど、祈りの時でない普通の時間にこそ、神の働きかけを感じることができる。

 六甲教会は、新体制の「地区会」を基盤に、互いのつながりを強め、神の望まれる共同体に近づこうと新たな一歩を踏み出した。神の御心に沿うよう共同体の組織を変えることはたいへん良いことである。しかし、組織が変わったからと言って、私たちの心も変わる保証は何もない。組織を変えることに満足を得ただけで終わってしまわないよう、個人においても、共同体においても神の霊の動きを感じることが私たちの根本的な目標であることを忘れてはいけない。

 神が私たち一人一人、そして共同体としての私たちに何を言われているのか、どう導いてくださろうとしているのかを、何もない平凡な時にこそ、感じ取っていきたいものである。

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